湧雲・散雲         茅茫庵
2007年3月 
 
2007年3月
2007年2月



 私は、人の心や、社会の中で起こっていることは、みんな雲のようなものだと思っている。いつの間にか湧き起こり、いつの間にか消えている。
 人の心を虜にする事象は、それがどんなに激しいものであっても、いつかは止み、次の瞬間に心は別のことに囚われる。程度の差はあれ、誰もその有り様から離れることはできない。今、この瞬間には、全く意識されていないことが、次の瞬間には人の心を躍らせ、狂喜乱舞させたり、意気消沈させて自ら命を捨てようとさせることさえあるのだ。
 そんな、心や社会の中に浮かんでくる雲のような事柄を、思いつくままに書き留めてみたい。
   
        

2007年3月30日

         次々出てきた原発事故隠し


 原発の事故隠しに関するニュースが次々に出てきて、あきれ返るが、あきれてもしょうがない。
 何で、今頃、次々と隠した事実が出されてきているのか不思議な話だ。もう、後戻りできないところまできたと踏んで、また当時の幹部も大方いなくなったということで、たいした問題にならずにやり過ごせる頃合になったとでも判断しているのだろうか。
 私は、原発に関して、専門的な知識はない。中学生の頃原子力や原爆について書かれた200ページくらいの本を繰り返し読んでいた程度の知識しかない。
 それでも、か、あるいはそれだからか分からないが、原発の危険性は感じているし、不安は大きい。実際、アメリカでもソ連でも大きな事故を経験している。
 原発を推進する者と反対する者との議論をみていると、私の頭には「アキレスと亀」のパラドックスが浮かんできた。
 足の速いアキレスと足ののろい亀がハンディをつけて駆けっこすると、アキレスは決して亀に追いつけないという論理である。理由は亀がいたところまでアキレスが進むと、亀はもっと先におり、さらにアキレスがそこまで進むと亀は更に前にいる。これを無限に繰り返すからアキレスは決して亀には追いつけない、という論法である。
 この論法を論理で覆すとなるとなかなか大変だが、経験的にこの論理が成り立たないことは誰でも分かっている。
 私が、なぜ原発の議論をみて「アキレスと亀」のパラドックスを思い浮かべてしまうかというと、反対論者は「これこれの危険がある」と指摘し、推進論者は「それに対してはこのように対処するので問題はない」と答える。反対論者から出てくる指摘に対してすべてそのような回答を作るのである。そうすると、議論は出尽くしてきて、「見解の相違」ということになってくる。そして政治が働き、推進されるわけである。
 原発に拘わらず、議論はみんな、そんな風に進められるが、このようにして反対派が押し込められても、原発の危険性は少しも減少するわけではない。反対派も推進派もしょせん自分たちに想定できる範囲の中で議論しているに過ぎない。
 本当の問題は、人間による議論が可能な範囲で起こる問題に対する答えではなくて、人間の頭の中に全く浮かんでこない危険に対する対処をどうするのかということである。だが予想できない危険についての対策など誰にもできない。しかし、予想できない危険が我々の世界を覆っているということは誰でも経験的に認識している。
 10分先の巨大な地震を誰も予想できないが、そのような地震が起こりうることを誰でも知っている。それが、自然現象として起こることであるなら、人間には選択の余地はないが、原発の危険については推進如何が人間の判断することである。
 原発を人が作らなければ、原発による予想できない事故を防ぐことは完全にできる。原発を作れば想定できない事故の危険から逃れる策はない。しかも、その被害の大きさは計り知れない。しかし、原発から得られるエネルギーの大きさもきわめて大きい。
 原発は絶対安全で大きなエネルギーを確保できるというものではない。大きな危険が伴っていて、大きなエネルギーが確保されるというものである。原発の推進は安全を強調して推進すべきものではなく、危険を十分周知させて推進すべきものである。危険性を十分知らせて、覚悟を決めて推進するのであれば、事故隠しをする必要がないし、むしろ現場の人々は積極的に事故の報告をするだろう。




2007年3月21日

         原発の事故隠し


 原発の制御棒の落下事故のニュースが次々に伝えられている。10年以上も前の事故が今頃になって出てきているわけである。
 北陸電力志賀原発1号機では臨界事故だったわけで、きわめて重大だが、データなどは廃棄されていたという。事故が起きただけでも大変だが、報告もせず、データも破棄しているのだから、犯罪である。怒って見せた大臣もいたが、ここは決して怒ってみせるべきところではない。怒っても何にもならない。
 なぜ、事故が起き、なぜ報告がなされず、なぜ隠すためにデータが破棄されるのかを考えて見なければなるまい。
 私は、原発事故が隠されるのは原発の宿命だと思っている。
誰でも、原発は危険だと思っているのである。しかし、原発を推進した人々は原発を受け入れる自治体や住民に「原発は安全です」と言って受け入れさせてきたのである。何年もかけて国の政策として推進してきたのである。そしていつの間にか受け入れられたのである。人の気持ちは変えられるからである。
 ところが、人の気持ちは変えられても原発の危険性は変わる事が無い。また、原発で働く人たちにしてみれば安全だと思えばこそ、そこで働くことができるのである。危険ではあるが安全である、と思えばこそ働けるのである。危険である上に、安全ではないと思えば働く人はいない。心のどこかで安全だと思うからこそ、働けるのであり、だからこそ気の緩みは起きるのである。
 事故をなくすために、気の緩みをなくし、厳格に決められた手順だけを守らせようと思うなら、決して緩みが起きないように危険性だけを強調するしかないが、そうすると働くものは誰もいなくなる。人間は緊張だけの職場では働けないのだ。
 原発が作られたのは「原発は安全です」という説明が受け入れられたからこそであるが、本当は安全なわけではない。事故も起きるわけである。だから、実際に事故が起きてしまうと、電力会社が事故を可能な限り外部に知られないようにしたくなるのは当然のことである。知られないようにするために、報告をしない。データを消し去る。これは当たり前のことである。不利なことを知られないために、報告しない、証拠を隠滅する、虚偽の報告をする、自分に都合のよい説明をする、というようなことは誰もが認める極悪人だけの特性ではなく、ごく普通の人間が共通に持っている心理なのである。
 安全ではないものを「安全だ」と説明したときから、ボタンの掛け違いが始まっているのである。安全だと説明してしまうと、実際に事故が起きてしまったときに説明に窮する。そこでまた、虚偽の説明をしなければならなくなる。人は、他人に向かって「嘘をつくな」と要求するが、時には嘘をつかなきゃならない者の立場にもなって考えてみるべきである。誰でも嘘をつく羽目に追い込まれるのはいやなものだ。嘘はつきたくないのだ。だから、いっそ具合の悪いことにはほっかむりを決め込みたくもなるのだ。事故が、自分の立場や将来に不安を作り出すとも思えば、正直に報告するのが馬鹿らしく思えてくるというのも人間の偽らざる気持ちであろう。
 原発の電力の中に占める割合は非常に大きくなっており、今となっては原発を早々になくすというのは現実性の少ないものになってきているのは事実である。
 だから、ここらで「原発は安全です」という説明をやめて、「原発は危険で、事故もありますがエネルギーの確保も必要です」という主張に変えて、原発事故に対する本当の対策を講じるべきではないか。もし、チェルノブイリのような事故が起きたら、日本ではいったいどのような補償をするのか、このことを明確にしておくことも必要なことではないか。補償ができないなら、できない事を明確にしておくことも必要なことだ。そうでないと重大事故が起こって被害者が発生しても、責任の所在や補償がうやむやになってしまうのだ。
 もっとも、日本という国は、うやむやにするのが文化といってもいいような国だから、被害者を泣き寝入りさせたり、声があげられなくしたり、聞こえぬふりをして黙殺するのがよいのかもしれない。皮肉であるが。
 今朝の朝日新聞には、11人が死傷した04年8月の美浜原発3号機の事故に関し、5人の公判なしの略式起訴が報じられているが、これなどは得意中の得意技が用いられていると言ってよいだろう。
 朝日新聞によれば、
 [5人を略式起訴とした理由について、福井地検の西谷隆・次席検事は「5人の死者を出した責任は重大だが、関電には長年にわたる組織としての問題があり、社員だけの責任に帰するのは公平を欠く面があると判断した」と話した。]
 とある。
 それでは、関電の問題は誰が裁くのであろうか。検察でないことは明らかである。要するに検察も「俺は知らねえよ」とほっかむりをしただけてあり、この程度の処分にしたことにより、インターネットでこのニュースを探してみたがニュース扱いもされないほどになっている。
 これから先も、原発事故が繰り返し起きることは間違いない。原発に拘わる人々がどれほど努力をしてみても、事故の可能性から解放されることはない。事故の可能性から解放されることがあり得ないのに、「事故は防げる」という主張を繰り返すことは、結局原発の現場で働く人々だけに責任を押し付けようとするものであり、そのことの不合理がつまるところ福井地検次席検事の言葉へとつながっていくのである。
 日本の原発が再びチェルノブイリを経験することがなく、その使命を終える日がくれば拍手喝采をしたいところであるが、もし2度目を経験することになっても、日本という国には驚き、わめく権利はないわけである。
 愛媛県の伊方原発ではプルサーマルが実施される方向でどんどん進んでいる。推進されることを喜んでいる人々がいるのは間違いないが、ほかに例のないことを進めていけば、前例の無い事故の危険が影のようについてきていることにも思いを寄せるべきである。
 しかし、私は、「危険なことはいっさいやるべきではない」という立場には立たない。時には危険を冒すことも必要なことであり、危険を冒すからこそ得られる利益や成果もあるというのは当然のことであり、危険を冒してでもやることが生き続ける条件でもある。
 だから、原発がその危険と得られる国民的利益を天秤にかけてどうしても必要であるという国民的合意があるのであれば、その危険を十分に考慮し、安全対策だけでなく、事故発生にさいしての責任追求の有りかたや補償の問題などを明確にするべきであろう。電力会社は何があってもつぶされない独占企業になっており、そのことだけでもモラルの低下は避けられない。基準を超えた問題があったり、事故が繰り返されるといった状況が続く会社は、たとえ電力不足が起きても解体するという国民的合意と法律があれば、再生への道は開かれるかもしれない。



2007年3月3日
 
         「仮想現実感」というもの
 
 先日、テレビでゲームの話をしていた。インターネット上で行うゲームのことである。私は、ゲームをしたことが無いから、よくは分からない。
 このテレビの話によると、最近のゲームでは勝つと仮想の通貨が獲得できるという。ところが、この通貨が、現実の「円」によって売買されるのだという。また、ゲームを有利に展開するためにゲーム上での武器を現実の通貨で買い取ることもできるという。このようにして、仮想的な通貨が現実の通貨のごとく扱われ、この仮想上の通貨を獲得して生計を立てる者さえいるという。この通貨を扱う市場のようなものまであるという。
 こうした状況を「仮想と現実の区別がつかなくなったもの」というような表現で、きわめて今日的な状況であるかのように話していた。
 一見すると、そのようにも思われるが、ゲーム上の通貨が現実の通貨に還元されるというのは、別に目新しいことではなかろう。パチンコの玉やマージャンの点棒は現実にはそのような機能を持っている。もっとも、パチンコ玉をすぐに現金に換えることはできないので、いちおう景品の形に換え、それを現金に換えているわけではあるが。そして、マージャンの点棒については現金化すると違法な賭け事として禁止されているわけではある。しかし、こうしたことが巷で行われていることは常識に近い。
 今、ここで「仮想現実感」というものを取り上げたのは、ゲームについて考えたい、ということではない。
 仮想と現実というものが、対立した概念として捉えられることが多いように思われて、取り上げてみたくなったのだ。
 「仮想」というものは現実を離れたものとか、人間の空想の産物とか、仮定されたもの、といった風に捉えられて、実質の無いもののように捉えられることが多い。
 だが、現実には無いもの、仮想的なるものにとらわれるということこそが、実は人間的なことであるのではないか、と私は思うのだ。人間は現実よりも仮想の世界に生きている。と私は思うのだ。
 人間には現在だけでなく、過去と未来がある。過去は記憶の中にのみあるのであって、現実にはどこにもない。未来は空想の中にあるだけで現実のどこにも存在しない。ところが人間は過去にとらわれ、未来を夢見て行動しているのである。もしかすると現在に対してこころを集中する以上に過去や未来を気にして生きているのではないか。
 現在とか、現実こそが実在するものと考えたところで、この現実も現在も本当に正しく捉えているかどうか、はなはだ疑わしい。
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