茅茫庵 「 自適農の世界 」
 
はじめに
私の野菜たち
なぜ野菜の栽培なのか
キュウリ
トマト
「自適農」とは何か
ナス
農薬使用から無農薬への道のり
苗つくり
「旬」について
 
 
 
The world of the quiet farming
Introduction
My vegetables
Reason why I grow vegetable
 
 
 
福岡正信の自然農法と茅茫庵
  


「自適農」とは何か
 




 私は、15年あまり野菜を主とした作物の栽培を続けてきた。世の中には色々な栽培法や営農形態があって、それぞれ様々に名称がつけられている。色々な名称がつけられた農の形があって、それぞれの特色があるのであるが、それでは私の農は一体何になるのか、何を目指すのか、と考えてみると、どこにも該当するものが見つけられない、いずれの農法や営農形態も私の実践する農行為とは一致しないという気持ちが漂うのである。

それで、自分の農のあり方を表現する適当な言葉はないかと、長い間考えていたのであるが、思いついたのが「自適農」という言葉である。インターネットで検索してみると、この「自適農」という言葉は出てこない。出てこないから、この名称を使うことに問題は無かろうと思う。

 「自適」という言葉は「悠々自適」などと使われる言葉で、言葉の意味は広辞苑によれば「何物にも束縛されず心のままに楽しむこと」とされている。「悠悠自適」というと何か、定年後の年金暮らしが思い浮かんでくるようだが、「自適」という言葉自体にはそのような意味は無い。

 私の農行為はまさしく、「何物にも束縛されず心のままに楽しむ」農行為なのである。私が野菜などの作物を栽培するのは、生活の糧を確保するのが目的でもなく、売って金を稼ぐためでもない。食費を節約するためでもなく、「安全な食」や「健康的な食」を追い求めることでもない。新しい農業技術を開発することでもないし、文明を拒否した農業にこだわることでもない。私は、作物の屈託の無い生長を見ることが楽しくてしょうがないのである。全く、それだけのことであり、食べることや、「美味しい」とかということは二番目、三番目のことである。

 わたしが行う「自適農」には、どうしても果たさなければならない目的や、守らなければならない約束事、用いなければならない技術、使ってはならない技術や資材、といったものは特には無いのである。

 私の「自適農」は、どのような農業指導書や、指導者にも従う必要が無いし、いわゆる栽培における常識とか、先輩の助言、やってはいけないとされていることに束縛されることも無いのである。しいて言えば法律だけが束縛なのである。

 しかし、「自適農」が、束縛が無く、心のままに楽しむ農行為であるといっても、そこには限界もあるのである。心のままにやっていくことが、やがて自分の楽しみ自体を妨げるような場合には自制はするのである。たとえば、気持ちの上で負担になっていく過剰な投資というようなものである。極端な例を引けば、人力で十分耕せる面積の土地に高額のトラクターを導入するとか、農薬を使用しても効果が無いのに散布するとか、効果があっても逆効果があるのに散布するとか、使わなくても解決法があるのに散布するといったことをするのは「自適農」ではないのである。狭い土地にトラクターを投入するのは「道楽」ではあっても「自適農」ではないわけである。

 効果があっても、大きな「逆効果」があるような行為、効果があっても環境の悪化を伴うような行為も心から楽しむことを妨げていくから極力避けていくのである。

 また、農用資材については、可能な限り身の回りにあるもの、手近に手に入るものを使用し、高価なもの、遠くのものの使用は出来る限り避けるということである。

「自適」は「自」と「適」が組み合わされた言葉で、「みずからにかなう」とも読める。「自」とは「今」「ここに」存在するものである。「今」でなく、「ここ」でないところに存在するものは「自」ではない。「今」「ここ」に存在するものが「自」であるから、自適農は「今」と「ここ」を重視するのである。「今」と「ここ」に「かなう」農を「自適農」というのである。いま、ここで手に入るものを、あるいは、いま、ここにあるもので代用できる資材を遠くから、多くの時間や労力、費用をかけて手に入れ、使用することは「自適農」の趣旨とは違うのである。出来得る限り、「今」「ここ」にあるものの可能性を組み尽くして、自らが立っている土地とその周辺を実りのある土地にしていく農行為が「自適農」である。

 自適農は、誰にでも出来る農行為である。土地は借りた土地でも、自分の土地でも良い。自分自身が農業従事者であってもいいし、サラリーマンや自営業者、会社の経営者であってもいい。小学生であっても、働いている人でもいいし、定年を迎えた人でもいい。自分自身が、自分のやり方で、自由にのびのびと作物に向かえば、それが「自適農」である。土地は、一坪でも良いし、100坪、1000坪、1万坪であっても良いが、利益を目的とするものではない。強度の目的をもつものは自適農ではないのである。それは目的に縛られるからであり、束縛されるものは自適農ではないのである。自適農の本質はなにものにも束縛されないことである。

 また、自適農は農地の適性に応じた栽培法を求める。同じ人が同じ作物を栽培するにしても、畑のもつ条件が違えば違ったやり方をし、その土地に一番適した栽培法を求めていくという立場にたつ。たとえば、畑の方角とか、地形とか、保水性や水はけ、日照条件、前作の作物、土の種類、畑に隣接する土地の条件などなど。これらの条件の違いを人間の農行為の中で違った対応として汲み取っていくのである。

 自適農は、大筋でというか、基本的には大きな収穫を他の誰とも同じように求めるのではあるが、収穫に失敗するような行為も、思いのままにやっていくのである。人が見て、「この畑はなんだ」とあきれるようなことも、また、まったく収穫にならないような試みも誰はばかることなく、やっていくのである。失敗することが前もってわかっていることをあえて実行することさえあるのである。

 また、作物に必要な肥料成分などの知識をどんどん取り入れることもあるし、まったく無視することもあるのである。有機肥料や化学肥料をどんどん使うこともあるし、全く使わないこともある。

 しかし、何をやっても良いのであるが、反省する心、失敗から学ぶ心だけは捨ててはいけないのだ。それだけが、唯一の束縛といえば束縛なのである。これが自適農である。

 たった一つの束縛を除いて、あらゆる心の束縛を解き放ち、心の彷徨するままに作物に向かい、作物と向き合うことを心から楽しむ、ということが「自適農」である。

 わたしが、なぜ、「自適農」という言葉を使って、私の作物に向かう立場を著述しようとするのか、そのことについて述べておきたい。

 私が、作物に向かう向かい方は、農業で生計を立てている農業者とは根本的に違うし、様々に提唱されている「農法」などとも異なったものである。農業によって収入を得ようとする人々が栽培する作物は、収入が得られる作物であるが、私の言う「自適農」が栽培する作物は収入を得るという目的をもっていない。また、「何々農法」といった農法は、特定の条件、約束事がたくさんある。しかし、自適農には何の条件も約束事も無い。作物を栽培する上での楽しみに影が射さない限り、何をしても良いし、何をしなくてもよいのである。この、わたしのような作物へのかかわり方をする人は、世の中には私一人ではなく、大勢おられることと思う。しかし、そのようなことをあらためて考える人は少ないであろう。考えることより、楽しむことが先だからである。私が、あえて、自分の作物へのかかわり方について著述しようとするのは、自分が何をしているのかを自分自身が知るためである。その上で、作物と向き合う暮らしがしたいけれども考えがまとまらなくて実行に移せない人とか、どのようなかかわり方をしようかと考えている人の参考になることがあればしていただきたいと思っているからである。私は、「自適農」を普及しようとか、人々にこのような指向性を持たせようとか、考えているのではない。そのようなことは全く無用なことである。人がどの方向を目指すかはそれぞれの人が自分で判断することであり、どのような判断も他人が口を出すことではない。私に出来ること、私がしようとしていることは、自分の作物へのかかわり方を整理することによって自分を確認し、副産物として人々の思考に一つの材料を提供することだけである。だから一顧だにされることがなくても、何の不足も無い。私が、他人の農を評価することに何の意味も無いのと同様に、人が私の農を評価しても何の意味もない。私は、私の心のままに作物に向かうだけである。

 自適農を実践するには、一つの条件が満たされなければ不可能であろう。だが、この条件は束縛ではない。この一つの条件とは、自分の生活が農とは別のところで完全に確保されていなければならない、ということである。自適農の農は生活を支えるものではなく、従って農業と共に他の仕事も持っている農家、いわゆる「兼業農家」の農ではないのである。いくらかでも、生活の糧となることを目的としていれば、それは微妙に農行為を束縛し、心のままに楽しむことを阻害していくのである。自分の生活が別のところで完全に確保されていることが条件であるから、自適農は現実生活からの逃避ではないのである。会社勤めや都会の生活が嫌になったから自適農をやりたいと思うようでは自適農にはならないのである。現実生活の中では、他の誰とも全く同じように様々な束縛を受けながら暮らすほかは無いのである。

 専業農家の暮らしというものは、会社勤めに疲れたサラリーマンがおぼろげに抱いているようなのんびりとした暮らしではない。地方に住む農家の人々の暮らしは、都会に住む人々が管理社会に疲れて逃げていけるようなところではない。逆である。農業で食えなくなった人々が逃げていった先が都会なのである。農業で収入を上げ、所得を確保するということは並大抵のことではない。生産者の販売価格はばかみたいに安く、その上天候や競争によって絶えず脅威にさらされている。好転に恵まれ、作柄が良いと暴落に見舞われる。農繁期には朝早くから夜遅くまで可能な限りの人手を集めて作業に当たらなくてはならない。人手に替わる機械に頼れば投資効果の極めて低い機械の購入に資金がかかる。稲の脱穀機などは年に1日しか稼動させる必要がないといってもよいくらいだ。製造業では、夜も動かし続ける製造機械があるのに比べれば、その投資効率の悪さは大変なものである。生産性を上げ、投資効率を上げていく農業を目指せば、他の分野の経営と同じであり、人がゆとりを持って取り組めるような世界ではない。

 兼業農家は、農家として作物の生産にかかわり、農産物による収入、所得を得るが、いつのまにか所得の大部分は農業以外の所得になってくる。農業にかかわってはいるがもう本腰は入っていない。農業以外の所得によって農業機械や資材を購入し、農業以外の所得によって農業をやっているようなものである。農地を守るためにこのような転倒したやり方をする者も多い、と聞く。

 自適農はこのような専業農家や兼業農家とは根本的に違っていて、生活基盤が農業のうちには全く無いのである。農業以外の所得によって生活が確保されているか、もしくは農家の人が自適農をしようとするのであれば、収入・所得を得るための農作業と自適農を行うための農作業を厳密に区分する自覚が確立されていなければならない。農家の者が自適農を実践することは大変難しいことである。

 自適農は、初めから、収入・所得を得ることを目的としていないから、投資もまた最小限にしなければならない。どこかの社長さんや資産家が道楽で野菜つくりをするのなら、いくら投資しても良い。極端なことを言えば100万円の金をかけてたった1個のキャベツをつくっても良いのである。しかし金が余っているわけではない者がやる場合には、無駄な投資は出来ないのである。自適農は道楽ではないのである。収入・所得が無いのであるから、基本的には金をかけずに行う農行為なのである。しかし、金をかけないとはいっても鎌や鍬などの農具や、資材、肥料、土地確保にかかわる購入費や借り賃にお金が必要であるから、ある程度の出費はあるわけである。では、どの程度の出費が適当であるかというと、自分の小遣いで負担できる程度ということになる。これが無理なく出来る自適農の出費の範囲である。

 しかし、普通のサラリーマンが自分の小遣いの中から当てられる金額というものはたいしたものではない。ではどうするのか。無の世界から有を作り出すのである。金のかからないものを出来るだけ利用して、農を実践するのである。出来る限り、不要なもの、使用されていないものを利用し、資金無しに手に入るものを使用し、人々が無用だと思う物を使用して農を実践し、どうしても購入しなければならないものだけ購入するように努力するのである。だから自適農は無用のものから有用なものを生ぜしめる創造的な活動でもあるのである。

 自適農が、収入、所得を目的とする農業と違うとすれば、定年後の年金生活者がする畑仕事は私のいう自適農になるだろうか。このような定年後の年金生活者の畑いじりは、確かに生活基盤が農業ではなく、年金にあり、楽しみとして行われ、自分の心のままにやっているものである。だが、私の言う自適農はそれだけでは成立しないのである。この畑仕事が、それにかかわるものの主体としての自覚が無ければならないのである。畑で何を栽培し、どのような準備をし、どのような時期に、どのような作業をおこない、また、どのような作業を省くかといったことに関し、自分のはっきりとした意思で行っていくことが必要なのである。単なる年金生活者の暇つぶしの畑いじりは自適農とは言わないのである。「何物にも束縛されない」ということは、自分の意思を束縛されないことを言うのであって、自分の意思の明確でないところには、もともと「束縛」などないのである。自適農が「何物にも束縛されない」というのは、現実の農業が有形・無形のさまざまな束縛を受けているという現状認識によるものであり、その現状認識の上で「何物にも束縛されない」と言っているのである。

 私が、「自適農」という世界を構築しているのは、私の現実生活が、他の誰とも全く同じように、束縛やしがらみの世界であることの裏返しでもある。人は人の生活を続けようとする限り、束縛やしがらみ、ルールに従わざるを得ない。いかに理不尽と思っても従わざるを得ないことが延々と続くのが人の生活である。この理不尽な事態を受け入れる事が円満な暮らしを確保する唯一の道であり、理不尽と戦うことは棘の人生を歩くことである。

この理不尽な現実生活、束縛やしがらみの世界から離れて、その束縛やしがらみのない世界を自分の暮らしの一部として構築しようとするのが「自適農」の世界である。しかし、「自適農」の世界は人間の束縛やしがらみから解放されてはいるが、実は全く別の、もう一つの束縛を持っているのである。それは自然の世界、生命の世界が持っている理不尽である。この世界も人間の世界と全く同様に人の思い通りには決してならない世界なのである。夏の暑い太陽を燦燦と受けて、たわわに実った作物を一夜の台風がめちゃめちゃにするのをみて、人は愕然とする。理不尽のない世界、束縛やしがらみを受けない世界に生きようとすると、そこには全く別の理不尽が待っている。この重なる理不尽から抜け出るには、どうすればよいか。この問いに向かうもの、それこそが、「自適農」の本当の世界なのである。

 自適農の世界には、収入や所得を確保するという目的が無い。「現実的生活」というものを普通に考えると高収入・高所得がより豊かな生活を実現すると考えられている。より豊かな生活はものやサービスを買うことの出来るお金を稼ぐことだと考えられている。ところが、自適農の世界では、このお金を稼ぐという目的を全くもっていない。だから、一般には無意味な行為と考えられるか、あるいは単なる遊びと思われるかもしれない。ところが、この自適農の世界は収入や所得を追い求めはしないが、豊かな生活を生み出すものなのである。真の意味における豊かさとは、ものの交換価値であるところのお金の豊かさにあるのではなく、個人の必要に応える使用価値の豊かさにあるのである。収入や所得を確保することの目的は、お金そのものが究極の目的ではなく、そのお金によって物やサービスを買うことにある。お金は物やサービスを買うための手段であり、目的そのものではないのである。ところが、自適農の為すところは、人間の欲求である楽しみや物を、お金の媒介なしに掴み取るものである。収入や所得を得る活動は、激しい競争を生み出すが、直接使用価値を生み出す自適農の世界はなんらの競争を引き起こすことがない。自適農の世界は、人間にとっての有用な富を、直接自然界から掴み取ることであり、市場を媒介することがないから人間と人間の競争は生じることがないわけである。

 収入を確保するということは、物やサービス、労働といったものを他人に提供し、その対価としてお金を受け取るわけである。物やサービス、労働をお金と交換するという行為においては、交換するものは必ずしも等価ではないから、相手が笑顔でお金を出すとは限らない。なかなか大変なことである。笑顔でお金を出させるためには、相手が払うお金の価値以上の価値が、交換する物やサービス、労働の中にあると相手に感じさせなければならないのである。ところが、自適農が作り出す作物は他人のお金と交換する目的をもっていないから、それは自分が消費するか、消費し切れないものは回りの人に消費して貰うことになるのである。それでも消費しきれないものは、土に返すのである。土に返したからといっても、もともとお金に替える目的をもつていないものを土に返すのであるから、何の損も無いわけである。しかし、お金と交換することを目的としている作物は、その目的が達せられなかったときには損をするというリスクを負っているわけである。損をすることのない自適農は、損をすることがないが故に豊かな暮らしをしているのである。

 私の「自適農」は、いずれの農法、いずれの農産物とも市場で競争することが無い。一般に自家菜園の農産物は市場での競争をしない。自適農の農産物は市場での競争をしないが、すぐれた作物を作ることを目指している。効率よく、高度な品質をもった作物を作ろうとするのである。誰にも負けないよい作物を作りたいという望みもある。そこで、そのような意識を前面に出すとすれば、それぞれの作物の専門家の下で、最新の知識と技術を習得し、最高の条件を確保して作物の栽培を試みるのが最も良いことであろう。新規就農を試みる人たちの中で、このようなやり方をする人も多い。理のあることといえば言える。

しかし、私の自適農は、最新の知識も技術も設備も重用しない。おそらく、誰もがやっている、あるいは誰かがやったことのあるような、凡庸なやり方だけである。何故か。自適農は競争に参加する意思が全く無いのである。競争に参加する必要が全くないのである。市場に出ることを目的としない自適農は競争に参加する意思も必要も無いのである。